Will o' the wisp






 可笑しなところに迷い込んでしまった。
 風のうねる声が心をざわつかせる。
 此処は何処なのだろうか。
 羅針盤を見ても、針はくるくると忙しなく動くだけで私を導いてはくれない。
 森の中は暗闇に染まり、どこか遠くでは獣の遠吠えが聞こえたような気がした。
 ああ私の恋い焦がれる太陽!
 愛しい貴女の姿が消えてからの私の胸の苦しさといったら何に例えることが出来るだろう。
 次に貴女に出会うまで、どれほどの時間を私は耐えなければならないのか!
 美しい月の女神も素敵だが、やはり私は燦々と輝く貴女を愛しているのだ。
「……はぁ」
 知らず、溜息が唇から零れ落ちるのは仕方のないことだろう。
 何がいけなかったのだろうか。
 ストリートに貼られた、あの美しいイギリスの庭園を見てしまった時だろうか。
 そのポスターに触発されて、イギリス旅行を思い立ってしまったあの時だろか。
 そして都合よく仕事の休みがとれてしまったあの時だろうか。
 それとも、列車の車窓から見えた美しい森に心惹かれてしまったあの時だろうか。
 何の迷いもなく途中下車してしまった私の決断力だろうか。
 森の中があまりにも心地よくて、ついつい奥深くまで踏み込んでしまったのがいけなかったのか。
 今頃、私は柔らかなベッドの上で程よく質量をもった毛布にくるまれて眠っているはずだったのに。
「……後悔しても仕方あらへんな」
 誰も聞いている者もいないのだが、声に出して呟いてみた。
 草を踏みしめる音が虚しく響く。
 どれほど歩いただろうか。
 生い茂る木々の中、微かな光が見えた。
 月明かりの下、それは小さく揺れている。
「……?」
 目を凝らす。
 木々の狭間から見えるのは、それは少年の姿だった。
 こんなところに……?
 そんな疑問が浮かぶ。しかし、実は自分が思ったよりもここは人里に近いのだろうか。
 少年の異常に肌が白く見えるのは、月明かりのせいだろうか。
 繊細そうな指先がカンテラを掲げている。
 そのカンテラから弱々しい光が漏れている。
 少年はこちらに気付いているのか、どこか虚ろな青い瞳がこちらに向けられている。
 いつから、私を見ていたのだろう。
「なぁ、」
 声をかけようと歩を進める。
 すると少年の薄紅色の唇の端が僅かに動いた。
 青い瞳が細められ、うっすらとした笑みが浮かべられる。
 それはぞっとするような表情だった。
 ゆらり。
 カンテラの灯が揺れた。
 風が森の中を駆け抜ける。
 雲が流れ、月を覆い隠してしまう。
 暗闇の世界が広がった。
「ぁ、」
 木々の合間に少年の姿は消えていく。
 見逃しては堪らないと私は必至に足を運ぶ。
 背の高い草や落ちた枝に足がとられる。
 それが大変もどかしい。
 ゆらり。ゆらり。
 仄かに見える光。
 子どもの足に追いつかないはずはないのに、なぜこうも距離が縮まらないのだろう。
 むしろランタンの灯りはどんどん遠ざかっているように見える。
 灯りに導かれるまま、私は木々の間を進んだ。
 ふっと突然灯りが消えた。
「……っ」
 いつのまにか駆け足になっていた私の視界が開けた。
 目の前には小さな湖。
 少年はどこかと見渡すが、どこにも少年の姿はなかった。
 首を傾げる。
 一体、なんなのだろうか。
 自分の見間違いか、思い違いか。
 そんな馬鹿なことがあるだろうか。
 荒くなった息を整えていると、目の端に再び仄かな灯りが映った。
 しかし、それは先ほどのようなカンテラの灯りではない。
「……」
 その灯りは湖の水面の上を淡く明滅しながら滑るように移動している。
 灯りが明滅している様は、まるで鼓動が脈打っているかのようだった。
 呆けたようにそれを見ていると、それは次第に闇夜に消えていってしまう。
 しばらく、私はそこに立ち尽くした。
 もしかしなくとも私はこの世ならざるものを目にしてしまったのだろうか。
 ざわざわと、風が木々を揺らす。
 水面がさざめき、雲の合間から顔を見せた月の姿を映す。
 月の隣では、不気味に屋敷が揺れていた。  



Will o' the wisp
天国にも地獄にも拒まれた男

2010.10.24

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