薬指の約束


 きっかけは、ほんの些細なことだったと思う。
 まるでドミノ倒しのように、ほんの小さな力が次々と連鎖反応を起こし、いつしか大量のドミノが目の前に広がっていき、最後の一つが呆気なく倒れてしまう。

 ぱたん。
 始まりは、終わりの始まりだ。






 気付けば互いの距離感が狭まっていた。
 今では数か月に一度ほど、食卓を囲むまでになっている。互いの家に行き、食事を作り、他愛のない話をして、夜が更ける前に互いの生活に戻っていく。
 食事を作ることは頑なにスペインが譲らないため、イギリスは後片付けに徹することになるのが常だった。
 その日もいつものように食器をあらかた片付けおわり、紅茶でも淹れようかと思っていた時のことだった。
 突然、スペインがイギリスへ想いを告げた。
 全てが崩れ去るような気がして、イギリスは暫くの間何も言えずにスペインを茫然と眺めていた。
 かたん、と食器が傾く音にはっと我に返ったイギリスは、ただ一言「帰ってくれ」と呟くのが精一杯だった。
「イギリス」
 スペインの手がイギリスの腕を掴んだが、イギリスはその手を振り払った。
 泡が辺りに散る。
 真っ直ぐに見つめてくるスペインの視線に耐えられなくて、イギリスは床を見つめた。
 すぐ近く。スペインの息遣いが伝わってきていた。
 もう一度、スペインの手が伸びる。優しく腕を掴まれる。今度は振り払うことなく、けれど確かな拒絶を示すために、そっと左手でスペインの胸を押した。
 泡がシャツについたが、スペインは何も言わなかった。
 じわりと滲んだ泡が、消えていく。
「……もう、ここには来るな」
 垂れ下がった右手からは、ひたりと泡が落ちた。



 何か言いたそうなスペインを置いて、食器もそのままにして寝室へとこもった。
 ベッドサイドのランプをつけて、先ほどのスペインのことを考えていた。
 先に好意を示したのは自分だった。
 伝えるつもりはなかったが、行動ににじみ出るものは隠しようもない。鈍感だと思われがちなスペインだが、彼はイギリスの想いを敏感に感じ、汲み取り、そしてそれに応えようとした。
 だがしかし、この数年で向けられ始めた感情に、イギリスは気付かないふりをした。
 ありていに言ってしまえば逃げた。
 心地の良い距離感があまりにも心地よくて。
 何も始まらないことを望んでしまった。
 始まってしまえば、終わってしまう。
 スペインとの関係を終わらせたくなかった。
 イギリスは何に対しても捨てることが出来ない。
 ものであれ、おもいであれ、全て大事に手元に置いてしまう。
 ベッドに横たわり、部屋を見渡す。
 ベッドサイドには古い写真立て。何度もシェードを取り換えたランプ。近くに住んでいた少女(今では孫に囲まれて余生を過ごしている頃だろうか)から貰った小瓶。小さなデスクには古いタイプライター、筆ペンに黒インク、クローゼットの中には子ども用の衣服。いつか愛を注ぎ込んだ弟のような存在に贈ろうと思っていた木の玩具も、棚の中に大事に仕舞い込まれている。
 一つ一つに想いが込められていて、捨てることが出来ない。
 捨てることが出来ないそれらは、イギリスの生きる時間の中でいつしか朽ちていく。
 最後には自分一人残され、寂しさを味わうことになると知っていながら、それでもイギリスは捨てることが出来ないでいた。
 だからこそ、イギリスはスペインの想いを受け取ることを躊躇してしまう。
 自分は絶対にその想いを捨てることが出来ない。
 持ってしまえば最後。
 彼自身が持つ想いが捨てられて消えてしまったとしても、イギリスが持つスペインの想いは捨てられることは決してない。そして段々と朽ちていく様を見守ることしか出来ないイギリスを責め苛むだろう。
 イギリスは、それに耐えられる自信がなかった。

 
 それが昨夜の出来事だ。
 浅い眠りから目覚め、イギリスはカーテンを開けた。
 ロンドンの空は今日も曇りだ。
 窓を開けると、湿った空気が室内に忍び込んでくる。
 部屋を出て、リビングへと向かう。
 ソファにはスペインが眠っていた。
 どうしたものか悩んでいると、気配に気づいたのかスペインが目覚めた。
 ゆっくりと瞼が開き、緑の瞳が揺れる。
「おはようさん」
「……帰れと言っただろう」
 朝の挨拶に、口からついて出たのは素っ気ない言葉だった。そんなイギリスの様子に、スペインは仕方がない奴だと言わんばかりにほんの少し笑った。
「納得いかへん」
「納得いかないも何も、俺はお前と関係を持つつもりはない」
「お互いに好きやのに?」
「勘違いだ」
「嘘はあかんよ」
 起き上がったスペインは欠伸を一つすると、台所へ向かった。
 コップに水を注ぎ、一気に飲み干すと戻ってくる。
「ずるいと思わへん? 気付かせたんはそっちやのに」
「お前が勝手に思い込んだだけだろう」
 真っ直ぐに見つめてくる瞳を見返すことが出来なくて、イギリスは視線を逸らした。
 ほんま、ずるいわ。
 スペインが言う。
 困ったような声音だった。
 イギリスに受け取ってもらわれへんかったら、どうしたらええの。迷子になってまうよ。
 寂しそうに言うスペインに、イギリスは視線を上げた。
 スペインの手がイギリスの手をとった。
 指先が絡む。
 こつん、と額が重なる。
 なあ、お願いやから。
 切なげな吐息が、肌をくすぐった。
 受け取ってくれへん?
 吐息が絡み合い、唇は届かない。そんな距離で。
 スペインは囁いた。
 イギリスは苦しげに眉根を寄せながら視線を伏せた。
「……終わらせたくないんだ」
 言葉は口にすれば消えてしまうし、形のあるものは壊れてしまう。
 それを捨てられず持っているのは辛い。
 だから、始まりを作りたくない。
 正直に言うと、スペインは額を離した。
「知っとったけど、酷い奴や」
 ぽつりと呟くと、スペインはイギリスの顔を無理矢理あげさせた。
「どうしたら信じてくれるん?」
 イギリスは首を振る。
 頑なな態度に、スペインは体を離した。
 再び台所へ戻るとその手には包丁が握られていた。
 突然のスペインの行動にイギリスはついていけない。何をしたいのか分からず成り行きを見守っていると、スペインはテーブルの上に包丁と共に持ってきていたタオルの上に自分の手を置く。そして自身の薬指を切り落とした。
「なっ……!!」
 タオルが真っ赤に染まる。
 スペインの左薬指からは、どくどくと止めどなく紅い液体が流れ落ちていく。
 あまりのことに絶句していると、スペインは切り落とした薬指を差し出した。
「お前は、一生これを持ってろ」
 動けずにいると、無理矢理にその薬指を握らされた。
 ぬるりとしたものが掌に広がる。
 スペインの体がふらりと傾く。
 慌てて支えると、スペインは顔を青白くさせて気を失っていた。



 切り落とされた指はどうしたらいいか分からず持て余し、接合するかもしれないと思った末に、袋に入れて冷凍庫に入れた。
 スペインは数十分後には目を覚ました。
 再びソファの上で目覚めたスペインは、起きるとすぐに自身の左手を確認した。
 短くなった薬指には白い包帯が巻かれている。
「……俺の指は?」
 冷凍庫の中だと告げると、スペインは大きな笑い声をたてた。
「食ってくれてもええよ」
「ばっ…かかお前は!」
 何を考えているんだと怒鳴ると、スペインは少し皮肉な表情を浮かべながら笑う。
「イギリスは、一生あの指を持つんや。お前のことだから、絶対に捨てられへんやろ。一生、あの指を見て俺のことを思い出せ。自分だけ楽になろうなんて甘いこと考えるんやないで」
 

 数か月後。
 あの薬指は、やはり捨てることが出来ずに今もまだ取ってある。腕の立つ標本技術士に頼み、標本にしてもらった。
 小さな試験管の中、薬品の中で薬指は腐ることもなく漂っている。
 スペイン自身の指は何事もなく生えてきていた。なぜだかスペインはそれが不満なようで、残念がっていた。
 あれから表面的な関係は変わらずにいる。
 数か月に一度、食卓を囲み、他愛もない話を交わし、そして夜が更ける前に互いの生活に戻っていく。
 少し変わったことと言えば、たまに同じ屋根の下で夜を過ごし、戯れのように唇を触れ合うようになった。
 ただそれだけだ。
 しかし確実にイギリスは逃れられなくなってしまった。
 捨てることが出来ずに、イギリスは己自身が朽ちるまで薬指と、そして想いを持ち続けることになった。
 薬指に縛られ、もう逃れることは出来ない。







誰よりも向けられる愛を大事にする男は、誰よりも臆病で誰よりも自分勝手。 そしてそれを愛してしまった男は、誰よりも残酷。


薬指の約束
試験管の中の、くすりゆび

20110505:イベント配布の無料配布本
2012060616:サイト掲載


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